「農の心 暮らしの絆(東日本大震災支援)」第4号 特集:宮城県再訪(2012年3月26日〜31日)

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その4

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その5

(120.4.29)

「農の心第4号」:

東日本視察交流記(8) 613日(月) (その1) 昭和61年大水害を乗り越えて

東日本視察交流記(11スニーカーで田植え,6月13日(月) (その4)

 13時ごろ、東松島市の旧鳴瀬町庁舎に到着、農政課のOさんを訪ねた。新聞で当市の大曲地区、立沼地区について報道されていたので、あらかじめ電話で農家の方々への紹介をお願いしていたのである。

東日本視察交流記(14 614日(火) (その2)有朋自遠方来、不亦楽乎

夕方4時半ごろに登米市米山の有限会社おっとちグリーンステーションに着いた。「おっとち」というのは「追土地」という地名なのだ。

帰路につくために仙台駅に向かった。

4日日間で600q走りましたよ」と佐々木さん。「すごい距離ですね。おかげでいろいろな人と出会えました」と私。「わざわざ関西から大学の先生が来てくれた、と皆さんも喜んでいましたよ。」

福島県の田村市に行こうと思ったのは、原発地域のそばにありながら
放射線量がわりあいに低いこと、耕作放棄地が多いこと、市の総合計画で
Iターン、
Jターン等を求めており、地域循環型経済への志向もあること、からであった。

 東日本視察交流記(1) 110619
 

東日本視察交流記(2) 110619

4月の中頃から、東日本大震災が復興の局面に入りはじめると、
やはりそのことが気になりはじめた。昔(阪神大震災で)取った杵柄というものだろう。

東日本視察・交流記(4)  仙台市へ。ワークショップに参加

950分発、磐越東線で郡山に戻り新幹線で仙台へ。11時半に到着、仙石線で一駅の
榴ヶ岡(つつじがおか)で下車。軽く昼食をとり、榴岡公園を散策しながら宮城県婦人会館へ。

東日本視察交流記(5) (少し横道)「本業でボランティア」

昼食をお蕎麦屋さんでとって、鳴子温泉、川渡温泉に行った。建物のなかには入らなかったが、
南三陸町などから避難者が来ている。(帰ってから見た新聞記事には、温泉旅館で避難生活している人は体調を崩している人が多い。

東日本視察交流記(10 被災地・東松島市矢本町へ613日(月) (その3)

市役所から車で10分余り走ると小高い所に旧春山小学校があった。昨年廃校になった学校は、
まだ校舎が新しかった。環境の良い学校なのにもったいない限りである。

東日本視察・交流記(3)  田村市の避難所へ

東日本視察交流記(7) 無施肥・無農薬の自然栽培612日(日) (その3)

正午ごろ、同じ鹿島台の、第2の訪問先「ダイアファーム」に着いた。社長の阿部さんが明るく迎えてくれた。阿部さんは、米を中心に生産販売の会社を経営しているとともに、宮城県農業法人協会の会長のほか大崎市、農協の役職をし、幅広く活動している。

東日本視察交流記(12 ササニシキを食す613日(月) (その4

和食料理店「ひで」の大将が威勢の良い声で迎えてくれた。佐々木さんとは「お米仲間」なのだ。

ホテルのベッドはダブル仕様で広かった。サービス競争の一つなのであろう。おかげで、
日課にしている朝の「進化体操」をベッドの上で行うことができた。「進化体操」というのは、
人間の身体が何億年かけて進化してくるなかで取った姿かたちをよみがえらせ、
自然の身体により近づけるという体操である。

940分ごろに佐々木さんが車で迎えに来てくれ、郊外にある彼のNPO事務所に向かった。

東日本視察交流記(9) 「東日本大震災・農業漁業復興共同体」と会う 613日(月) (その2)

東日本視察交流記(6) ササニシキというお米

朝、9時過ぎに佐々木さんがホテル到着。今日は、昨日と反対に東に向かう。午前中にマルセンファーム、お昼にダイアファーム、午後に東松島市の被災地2区、夕方におっとちグリーンファームを訪問するという日程である。

東日本大震災(地震、津波、原発)からの農業復興のためのプラン(案)

東日本視察交流記(13 被災地・仙台市若林区へ614日(火) (その1)

朝、少し時間があったので、吉野作造記念館を訪れた。「古川学人」を名乗るように古川で生まれ育った吉野は、戦前の天皇制の時代のなか、民主主義(=democracy)を唱えて、大正デモクラシーをおし進め、さらには無産者運動に加わり、新人会の結成を呼びかけた。