東日本大震災視察・交流記(2)  福島県田村市役所へ

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 福島県の田村市に行こうと思ったのは、原発地域のそばにありながら放射線量がわりあいに低いこと、耕作放棄地が多いこと、市の総合計画でIターン、Jターン等を求めており、地域循環型経済への志向もあること、からであった。

 京都駅842の新幹線のぞみで東京へ。東京でアナゴずし弁当を買ってMAXやまびこに乗り、郡山で下車、磐越東線に乗り換える。磐越東線は、以前「奥の細道」の白河関や飯坂温泉、勿来の関を訪ね、帰路にいわき市まで行ったときに通ったことがある。山合いを縫って走る心なごむ路線である。

郡山から20分ほどで「要田(かなめた)」駅、その前後から耕作放棄地が目に入る。「船引(ふねひき)」で下車し、田村市役所へ徒歩10分。

家々の被害はほとんどなさそうである。屋根の一部が損壊し、ブルーシートがかけられている程度だ。14時に市役所到着。

アポをとっていた農林課のMさんを訪ねた。

「お見受けするところ震災の被害はそれほどではなかったようですね」と尋ねる。「そうなのです、ここは岩盤が固いので、揺れはしましたがそれほど大きな被害は出なかったのです」と少し声を落として答えられた。

「原発の放射線はどうなのですか」と言うと、こちらの方は積極的に、日々の放射線測定値をプリントアウトしてくれて、「放射線量は低いです」と力強く答えられた。

61日から10日の測定値で、田村市役所(福島第一原発から42km)は0.17~0.21、都路行政局(同35km)は0.52~0.62、岩井沢児童館は1.04~1.16で最も高い。水はND(測定されず)。土壌は、都路村(警戒区域、避難区域)の測定値はないが、42123日、ヨウ素とセシウムの合計で、22地点のうち1000ベクレル/kgを超えるのは5地点、最高値は2604であった。最高値は田村市の西端で原発から一番遠い地点である。不思議である。いずれにしろ、国の水田作付上限値(セシウム)5000ベクレル/kgを下回っていた。

原発の爆発直後は、8000人の避難者が生じてごったがえした。現在は春山小学校(昨年廃校)に150人ほどいる、という。警戒区域、緊急避難地域に入っている旧都路(みやこじ)村の人たちである。(あとで案内してもらう。)

平成17年に41村が合併してできた田村市。旧町村の役場機能は「行政局」という形でそのまま残っている。都路行政局は、田村市役所(船引)に移転してきて、会議室に設置されている。

話は、耕作放棄地のことに移る。

耕作放棄地は1600haもある。字単位に地図が30枚ほどもあり、田畑の一筆ごとの境界がわかる。その一枚を取り出して見せてくれたが、長年の放棄地は赤、なんとか耕作できるものは緑に色塗りされていた。

それらは、あちこちに点在しているうえに、放棄地に行くには畔道しかなく、他人の耕地を通れないのだから、農機具は入れられない。

「田の生産調整はどれくらいですか」と聞くと「37%です」という。「えらく多いですね」というと、どうも県に特殊な事情があるようなのだ。

生産調整の田の半分は豆や野菜などをつくっているが、他の半分は高齢化や湿田などの悪条件で不作付けである。

基盤整備は全体の50%の進捗率で、平地と山が連続しているこの地では、厳密に調べると放棄地は3000haにもなるかもしれない、というのだ。Mさんは一生懸命この問題に取り組んでいる様子なのだが、どうしようもない、という面持ちで苦しい笑いをうかべていた。

救いの糸でもあるIJUターンの人は、東の方の都路村は土地が広がっていて別荘気分になれるので、若干入ってきていた。年10万円の補助を3年間あげることになっている。しかし、この2年はゼロ、という。

土地を「ただでよいから耕作して」ということで貸す農家も多く、移(うつし)地区などには大規模農業法人もある。しかし、全体として、葉タバコは年1回収穫、繁殖牛も肉質改善競争でたいへん。あととりにとって、思ったように売れる農産物はない。有機農業研究会が17軒ほどで集まっているが、一時売れたエゴマ油(300cc2500円)も競争で売れにくくなった。

 さいごに、「都路の警戒区域の方々は、かなりの期間、戻れないと思われるけれど、船引の方で土地を借りて農業をしようという人はいないのでしょうか」と尋ねると、「都路は大きな養鶏場などがあり、原発勤務もあって兼業が多いから、移住してまで農業を続けようという人はいないだろう」との答えだった。

「浪江町、飯館村から移住して農業をしたいということになれば、どうでしょうか」と尋ねると、「耕作放棄地などの条件は厳しいが、やる気さえあれば、私たちも応援したい気持ちはある」ということであった。

午後4時前、避難所の春山小学校舎に向かった。   (続く)